柄本明の若い頃。商社マンから名優への転身と軌跡

夕暮れの街を背景に、男性が一人、役者の椅子や舞台幕、古いフィルムリールなど演劇の道を象徴する要素が散らばる道を歩いている。道の先には生命力あふれる木々があり、枝には家族のシルエットが描かれ、根元には温かく光る心臓のイメージが置かれている。

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※当記事は公開情報をまとめた考察記事です。記載内容は執筆時点で確認できた情報に基づきます。

唯一無二の存在感を放つ俳優の柄本明さんですが、その若い頃の経歴や知られざるエピソードに関心を持つ方も多いのではないでしょうか。商社マンという意外な経歴から、いかにして今日の個性派俳優としての地位を築き上げたのか、その軌跡には多くのドラマがありました。

この記事では、柄本明さんの若い頃の歩みを丁寧に紐解いていきます。志村けんさんとの伝説的なコントの裏側や、公表された病気との向き合い方、そして彼を支え続けた家族の物語に光を当てます。

最愛の妻である角替和枝さんとの心温まるエピソードはもちろんのこと、俳優として活躍する息子の柄本佑さんや時生さんのこと、そして表舞台に立たない長女である娘のかのこさんが選んだ道についても詳しく解説します。公の記録やインタビューに基づいて、柄本明という一人の人間の深い魅力と人生の物語をお届けします。

目次

柄本明の若い頃の軌跡|商社マンから個性派俳優への転身

  • 商社勤務から演劇の道へ|俳優を目指したきっかけ
  • 劇団「東京乾電池」結成と若き日の活躍
  • 映画「カンゾー先生」での主演と日本アカデミー賞受賞
  • 志村けんさんと築いた伝説のコント秘話
  • 公表された「前立腺肥大症」とその後の活動について
  • 数々の名作で異彩を放った若手時代の出演作品

商社勤務から演劇の道へ|俳優を目指したきっかけ

俳優として唯一無二の存在感を放つ柄本明さんですが、そのキャリアは意外にも会社員から始まっています。東京都立王子工業高等学校機械科を卒業後、一度は精密機械の商社に就職し、サラリーマンとして社会人生活をスタートさせました。

しかし、20歳の冬に訪れた転機が、彼の人生を大きく変えることになります。知人に誘われ、鈴木忠志さんが主宰する早稲田小劇場の舞台「どん底における民俗学的分析」を観劇した際、その世界観に「くだらないなぁ」という褒め言葉とともに強烈な衝撃を受けました。「このまま会社員でいいのか?」という思いが芽生え、年明けの出勤日に上司の挨拶を聞きながら、会社を辞めて役者の道へ進むことを心に決めたのです。

柄本さん自身は後年、この決断を「青春の誤解」だったと振り返っています。学生運動が盛んだった時代背景もあり、アングラ演劇の世界が格好良く見えたと語りますが、その背景には、幼少期の家庭環境も大きく影響していました。映画とお芝居が好きな両親のもと、家には常に映画雑誌があり、日常会話も作品の話ばかりという環境で育ったことが、自然と表現の世界へ彼を導いたのかもしれません。

劇団「東京乾電池」結成と若き日の活躍

商社を退職し、俳優への道を歩み始めた柄本明さんは、いくつかの活動を経て、自身の表現を追求する場を創り上げます。まず、金子信雄さんが主宰する演劇教室「マールイ」に参加し、そこで俳優の松田優作さんと出会いました。その後、串田和美さんの誘いで劇団「自由劇場」に参加しますが、次第にその作風とのズレを感じるようになります。

そんな中、佐藤B作さんが率いる「東京ヴォードビルショー」の舞台を観て、そのナンセンスな笑いに衝撃を受けました。これが大きなきっかけとなり、同じ「自由劇場」に所属していたベンガルさん、綾田俊樹さんと共に、独自の笑いを追求した即興劇を始めます。

そして1976年、柄本さんは28歳の時に自由劇場を退団。ベンガルさん、綾田さんと共に笑いを中心とした劇団「東京乾電池」を結成しました。彼らのユニークな公演はたちまち話題となり、結成からわずか2年で人気は不動のものとなりました。1980年には、人気バラエティ番組「笑ってる場合ですよ!」に劇団員が出演するなど、お茶の間にもその名が知れ渡り、若き日の柄本さんは時代の寵児として注目を集める存在となったのです。

映画「カンゾー先生」での主演と日本アカデミー賞受賞

劇団活動と並行して映像の世界でもキャリアを重ねていた柄本明さんは、1998年に公開された今村昌平監督の映画「カンゾー先生」で俳優人生の大きな節目を迎えます。この作品で主役の「カンゾー先生」こと赤城風雨を見事に演じきり、第22回日本アカデミー賞の最優秀主演男優賞に輝きました。

実はこの主演は、予期せぬ形で舞い込んできたものでした。当初、主演は名優・三國連太郎さんが務める予定で、柄本さんは別の役でキャスティングされていました。しかし、撮影開始から1週間ほどで三國さんが降板したため、急遽、柄本さんが代役として主役を任されることになったのです。

三國さんの降板理由について、公式には体調面が挙げられましたが、柄本さん自身は後にテレビ番組で「(監督と)意見が合わなかったんでしょうね」「100テイクやったんですよ」と語っており、創作上の対立があったことを示唆しています。この大きなプレッシャーがかかる状況で大役を果たした柄本さんの演技は高く評価され、日本アカデミー賞のほか、報知映画賞など数々の映画賞を受賞。個性派俳優としてだけでなく、日本を代表する主演俳優としての地位を確固たるものにしました。

志村けんさんと築いた伝説のコント秘話

俳優として確固たる地位を築いていた柄本明さんですが、お茶の間では志村けんさんとのコントでの名コンビぶりが広く知られています。お二人の交流は、柄本さんがTBS系のコント番組「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の特番にゲスト出演したことをきっかけに始まりました。


特にフジテレビ系の「志村けんのバカ殿様」などでは、長年にわたって数々の伝説的なコントを生み出しました。柄本さんによると、その収録現場は常に緊張感に満ちていたといいます。台本には冒頭の設定が書かれているだけで、大半がアドリブ。柄本さんは「腕試しされているようで怖かった」と当時の心境を語っています。実際、収録前の打ち合わせも、志村さんの楽屋で2、3回セリフを合わせる程度で本番に臨むことが常だったそうです。

中でも有名なのが、温泉旅館を舞台にしたコントです。原稿に行き詰まる作家役の柄本さんのもとに、おばあさんに扮した志村さんがマッサージ師として登場。そこからは完全に即興の芝居が展開され、「ただただボケまくる」志村さんに対して、柄本さんが必死に対応していくというものでした。柄本さんは後年、「コントは志村さんとしかやらない」と公言しており、お二人の間にはジャンルを超えた特別な信頼関係があったことがうかがえます。

公表された「前立腺肥大症」とその後の活動について

柄本明さんは、2013年に自身の健康状態について公表し、多くのファンが気遣いました。しかし、その後の彼の力強い活動は、周囲の心配を払拭するものでした。

柄本さんは、2010年頃から「前立腺肥大症」の症状があり、薬での治療を続けていました。そして2013年4月、医師からの「手術をした方が楽になる」という助言を受け、仕事の合間を縫って内視鏡による手術を決断します。手術は無事に成功し、驚くべきことに翌週には仕事に復帰。報道陣に対しては「大げさなことではないので…」と、常に謙虚な姿勢を見せていました。

当初、一部の報道で「前立腺ガン」と誤って伝えられたことがありましたが、これはすぐに所属事務所によって訂正されました。柄本さん自身も後に「女房が『前立腺が…』と話したら、『ガン』と勘違いされてしまいました」とユーモアを交えて事実を説明しています。現在、インターネットの検索候補で「死因」といった言葉が表示されることがありますが、これはこの病気の報道や、最愛の妻・角替和枝さんが2018年に亡くなられたことなどの情報が結びついて生じた誤解です。柄本さん自身は手術後も変わらず、映画やドラマ、舞台の第一線で精力的に活動を続けています。

数々の名作で異彩を放った若手時代の出演作品

劇団「東京乾電池」で人気を博した柄本明さんは、若手時代から映像の世界でもその才能を発揮し、数々の名作に忘れられない印象を残しました。シリアスからコメディまで、その演技の幅広さは当時から際立っていました。

1981年に公開された相米慎二監督の映画「セーラー服と機関銃」では、薬師丸ひろ子さん演じる主人公に寄り添う黒木刑事役を好演。また、1982年には山田洋次監督の国民的映画「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」に出演し、日本を代表する監督たちの作品に次々と起用されました。


1990年代に入ると、その存在感はさらに増していきます。1992年の周防正行監督作品「シコふんじゃった。」では、個性的な大学教授・穴山冬吉役で作品にユーモアと深みを与え、大ヒットに貢献しました。さらに1994年には、特撮大作「ゴジラvsスペースゴジラ」に出演。これまでのイメージとは異なる役柄にも果敢に挑戦し、俳優としての懐の深さを見せつけました。これらの作品を通して、若き日の柄本さんは主役を喰うほどの強烈なインパクトを残す「名バイプレイヤー」としての評価を確固たるものにしたのです。


柄本明の若い頃から続く家族の物語|妻・角替和枝さんと子どもたちとの絆

  • 最愛の妻・角替和枝さんとの出会いと結婚生活
  • 妻・角替和枝さんのうつ病を支えた夫婦の献身的な日々
  • 息子・柄本佑と柄本時生の俳優としての歩み
  • 長女・柄本かのこはどんな人?裏方の道を選んだ理由
  • 安藤サクラを家族に迎え、さらに広がる芸能一家の輪
  • 妻・角替和枝さんとの別れと家族で支え合った日々

最愛の妻・角替和枝さんとの出会いと結婚生活

柄本明さんの俳優人生を語る上で欠かすことができないのが、最愛の妻であった女優・角替和枝さんの存在です。二人は、柄本さんが座長を務める劇団「東京乾電池」で出会い、1981年に結婚しました。当時、角替さんは26歳でした。

二人の結婚は、柄本さんの一目惚れがきっかけだったといいます。後年、角替さんのお別れの会で、柄本さんは涙ながらに「僕が一目ぼれですから一番かわいいと思っていた」と弔辞を述べ、その深い愛情を偲ばせました。

結婚後の夫婦仲は非常に睦まじく、おしどり夫婦として知られていました。特に、東京・下北沢の自宅近くの喫茶店へ毎朝二人で出かけるのが日課となっており、その姿は地元では有名な光景だったそうです。家庭では、柄本さんは角替さんを「和枝ちゃん」、角替さんは柄本さんを「えもっちゃん」と呼び合うなど、温かい関係性を築いていました。二人の間には長女、そして後に俳優となる長男・佑さん、次男・時生さんの三人の子どもに恵まれ、公私ともに最高のパートナーとして、互いを支え合う日々を過ごされました。

妻・角替和枝さんのうつ病を支えた夫婦の献身的な日々

順風満帆に見えた結婚生活の中で、夫妻は大きな試練にも直面しています。2015年に週刊誌の対談で明かされたところによると、その5年ほど前、角替和枝さんがうつ病を発症しました。きっかけは、夫婦でのニューヨーク旅行中に角替さんが心臓の痛みを訴えたことでした。

帰国後、精密検査のための入院最終日に、医師から「心臓は“心の臓”ですよ」「精神科へ行きなさい」と告げられたのです。角替さん自身、「甘えだ」と怒られるのではないかと不安だったそうですが、診察で医師から「今までさぞつらかったでしょう?」と優しい言葉をかけられ、堪えていた涙が溢れ出したといいます。

この出来事を機に、柄本さんは献身的に妻を支えました。次の診察から必ず付き添い、病気への理解を深めていったといいます。医師から「朝6時起床、夜10時就寝」という生活習慣を指導されると、柄本さんは毎朝妻より早く起き、「和枝!6時だよ!」と声をかけ続けました。この規則正しい生活を、夫婦二人三脚で実に1年間続けたそうです。角替さんは「えもっちゃんが変わった。優しさの深みが増しましたね」と語っており、この困難な時期を乗り越えたことで、二人の絆はより一層強いものになりました。

息子・柄本佑と柄本時生の俳優としての歩み

柄本明さんと角替和枝さんの才能は、二人の息子たちにも見事に受け継がれました。長男の柄本佑さんと次男の柄本時生さんは、今や日本映画界に欠かせない実力派俳優として広く認知されています。

長男の柄本佑さんは、母親である角替さんのマネージャーに勧められたことがきっかけで俳優の道を志し、2003年に映画「美しい夏キリシマ」の主役で鮮烈なデビューを飾りました。以降、「世界の中心で、愛をさけぶ」や「天皇の料理番」といった数々の話題作に出演。シリアスな役からコミカルな役まで幅広く演じ分ける高い演技力で、多くの映画賞を受賞しています。



一方、次男の柄本時生さんは、ユニークな経緯で俳優デビューを果たしました。2003年、兄の佑さんが受けられなかったオーディションに代役として参加したところ見事合格し、俳優活動をスタートさせます。2008年には映画「俺たちに明日はないッス」で初主演。父親譲りの個性的な存在感を武器に、ドラマ「Q10」で父と、「おひさま」で母と親子共演を果たすなど、唯一無二のポジションを確立しています。


以下に、俳優として活躍する二人の息子さんのプロフィールをまとめます。

名前 生年月日 俳優デビュー 特徴
柄本 佑(えもと たすく) 1986年12月16日 2003年 映画「美しい夏キリシマ」 幅広い役柄を演じ分ける実力派として数々の映画賞を受賞。
柄本 時生(えもと ときお) 1989年10月17日 2003年 ショートフィルム「すべり台」 個性的な風貌と存在感で、数多くの作品で印象的な役を演じる。

長女・柄本かのこはどんな人?裏方の道を選んだ理由

俳優一家として広く知られる柄本家ですが、父・明さん、母・角替和枝さん、二人の弟とは異なる道を歩んでいるのが長女の柄本かのこさんです。彼女は俳優ではなく、映画制作を支える裏方のスペシャリストとして活躍しています。

一部で「柄本明さんには息子が3人いる」という情報が見られますが、これは誤解であり、正しくは長男・佑さん、次男・時生さん、そして長女・かのこさんの3人兄妹です。かのこさんは表舞台に立つことなく、作品作りに貢献しており、公式に顔写真が公開されたことはなく、結婚に関する情報も公表されていません。

彼女は映画の制作部でキャリアをスタートさせ、当初は「制作進行」という役職を務めていました。これは撮影スケジュールや小道具の管理など、現場を円滑に進めるための重要な役割です。その後、経験を重ねて「制作担当」へとステップアップしました。制作担当は、予算管理や人員配置など、より大きな責任を伴うポジションです。これまで「ALWAYS 続・三丁目の夕日」や「ラプラスの魔女」といった数々の有名作品にその名を連ねており、着実にキャリアを築いていることがうかがえます。


なぜ彼女が俳優ではなく裏方の道を選んだのか、その明確な理由は語られていません。しかし、両親や兄弟が俳優として輝く中で、自らはカメラの後ろから作品を支えることにやりがいを見出したのかもしれません。光の当たり方は違えども、同じ「表現の世界」に身を置き、家族とは異なる形で映画への情熱を注いでいます。

安藤サクラを家族に迎え、さらに広がる芸能一家の輪

柄本家が「芸能一家」としての色彩をさらに豊かにしたのは、長男・柄本佑さんと女優・安藤サクラさんの結婚です。2012年3月のこの結婚は、日本を代表する二つの俳優一家が結びつく大きな出来事として、当時大変な話題となりました。

安藤サクラさんもまた、類まれなる才能を持つ芸能一家に生まれ育っています。父親は俳優の奥田瑛二さん、母親はエッセイストの安藤和津さん、そして姉は映画監督の安藤桃子さんという、まさにクリエイター一家です。

佑さんとサクラさんの出会いのきっかけは、弟の時生さんとサクラさんが共演したことでした。その後、佑さんがサクラさんに一目惚れしたといいます。義父となる奥田瑛二さんに交際の挨拶に伺った際、「結婚は3年待て」と言われ、その言葉を守り抜いて結婚に至ったというエピソードも伝えられています。この結婚によって、柄本家と安藤・奥田家という、日本のエンターテインメント界を支える二つの才能ある家系が親族となり、その絆は日本の映画界にとっても貴重な財産といえるでしょう。

妻・角替和枝さんとの別れと家族で支え合った日々

家族の結束が強い柄本家ですが、2018年に大きな悲しみに見舞われます。同年10月27日、妻であり母であった女優の角替和枝さんが「原発不明がん」のため、64歳という若さでこの世を去りました。

病が発覚したのは、亡くなる約1年前の2017年8月のことでした。夫婦で受けた人間ドックで異常が見つかり、精密検査の結果、既に全身にがんが転移しているステージ4の状態であることが判明しました。柄本さんは後年のお別れの会で、「家族一丸で病気と闘ったんですが、厄介な病気でして…」と、声を詰まらせながら無念の思いを語っています。

最愛の妻を失った柄本さんの悲しみは深く、報道によれば、角替さんの死後2年間、遺骨を手元から手放せずにいたといいます。おしどり夫婦として知られた二人の絆の深さがうかがえるエピソードです。このつらい時期を支えたのは、やはり子どもたちの存在でした。長男・佑さん、次男・時生さん、長女・かのこさん、そして義理の娘である安藤サクラさんも含め、家族全員が互いに寄り添い、支え合いながら、この大きな悲しみを乗り越えてきました。一家の大黒柱を失った後も、それぞれが俳優、そして裏方として活躍を続ける姿は、角替さんへの深い愛情と、家族の強い絆を物語っています。

柄本明の若い頃と俳優人生の軌跡|この記事のポイント

  • 高校卒業後、一度は精密機械を扱う商社に就職しサラリーマンとして働いていた。
  • 20歳の時に観たアングラ演劇に衝撃を受け、俳優への道を志すことを決意した。
  • 1976年にベンガルさん、綾田俊樹さんと共に劇団「東京乾電池」を結成した。
  • 「東京乾電池」は unique な公演で人気を博し、テレビ番組出演でブレイクを果たした。
  • 1998年公開の映画「カンゾー先生」で主演し、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞した。
  • 「カンゾー先生」の主演は当初三國連太郎さんだったが、急遽代役として抜擢されたものだった。
  • 「セーラー服と機関銃」や「シコふんじゃった。」など、若き日から名バイプレイヤーとして活躍した。
  • 志村けんさんとは長年にわたりコントで共演し、その多くがアドリブで行われた。
  • 2013年に「前立腺肥大症」の手術を受けたが、ガンではなくその後も精力的に活動している。
  • 妻は同じ劇団に所属していた女優の角替和枝さんで、柄本さんの一目惚れが結婚のきっかけだった。
  • 妻がうつ病を患った際は、1年間にわたり生活を共にし献身的に支え続けた。
  • 長男の柄本佑さんと次男の柄本時生さんは、共に俳優として第一線で活躍している。
  • 長女の柄本かのこさんは俳優ではなく、映画制作を支える裏方の道を選んだ。
  • 長男・佑さんと女優・安藤サクラさんの結婚により、日本を代表する俳優一家同士が親族となった。
  • 2018年に妻・角替和枝さんを「原発不明がん」で亡くし、家族で支え合いながら悲しみを乗り越えた。
  • 妻との別れの後、2年間遺骨を手放せなかったというエピソードからも深い愛情がうかがえる。

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