ヒロミの若い頃を総まとめ!イケメン時代から家族、事故の真相まで

過去から現在へ、様々な経験を重ねてきた男性の人生を象徴するコラージュ画像。左側には工務店の作業場のような木材や道具が置かれた古民家があり、右側にはネオンサインが輝く夜の街でカクテルグラスを持つ男性のシルエット、高級車、そして幸せそうに微笑み合うカップルの姿が配されている。全体に抽象的な色彩とギアのモチーフが散りばめられ、時間の流れと多様な人生経験を表現している。
※本画像はイメージです(実在の人物・写真とは異なります)

※本記事には 広告(Amazonアソシエイト含む)が含まれる場合があります。

※当記事は公開情報をまとめた考察記事です。記載内容は執筆時点で確認できた情報に基づきます。

今やテレビで見ない日はないほど大活躍中のヒロミさんですが、その若い頃は波乱万丈な道のりでした。この記事では、B21スペシャルとして活躍したヒロミさんの若いころ、多くの人が認めるイケメンだった時代から、その知られざる素顔に迫ります。

彼の人生を大きく変えた若い頃の事故や、壮絶な火傷の経験は今も語り継がれています。現在でも気になるやけどの跡が顔にあるのかという疑問や、その困難を支えた妻・松本伊代さんの若い頃からの献身的な愛情についても詳しく解説します。

また、ヒロミさんの実家が裕福だったのかという点や、大工である兄弟、そして彼を支えた母親との心温まるエピソードも紹介します。現在の気になる年収にも触れながら、ヒロミさんの人柄を深く掘り下げていきます。

目次

ヒロミさんの若い頃|イケメン時代から知られざる経歴まで

  • B21スペシャル時代!若い頃のヒロミさんはイケメンだった?
  • お笑いだけじゃない!セールスマンやホストも経験した異色の経歴
  • 実家は工務店!ヒロミさんの男らしいルーツとご家族・ご兄弟について
  • 気になる現在の活動と収入源は?多才なマルチタレントとしての一面
  • 妻・松本伊代さんとの馴れ初め|トップアイドルとの出会いと若い頃
  • 若い頃から変わらない?やんちゃなエピソードの数々

B21スペシャル時代!若い頃のヒロミさんはイケメンだった?

ヒロミさんは若い頃、1986年に結成したお笑いトリオ「B21スペシャル」のリーダーとして、お笑い界に颯爽と登場しました。
当時のお笑い芸人とは一線を画すスタイリッシュなファッションやそのルックスは、多くの注目を集めました。

B21スペシャルは、ヒロミさんがデビット伊東さん、ミスターちんさんと共に結成したグループです。DCブランドの衣装に身を包むなど、オシャレな見た目とテンポの良いコントで、またたく間にお笑い第三世代ブームの主役の一角となりました。
1990年には「ゴールデン・アロー賞」の芸能新人賞を受賞するなど、その人気と実力は高く評価されていました。

当時のヒロミさんは、先輩芸人にも物怖じしない強気な姿勢と鋭いツッコミを持ち味としていましたが、その一方で、若々しく端正な顔立ちも印象的でした。

若い頃の写真を見ると、現在の親しみやすい雰囲気とはまた違った、シャープでクールな魅力が感じられます。幼少期は「こんにゃく」と呼ばれるほど内気な性格だったというエピソードとは対照的に、自信に満ちたその姿は、まさにお茶の間の人気者でした。

お笑いだけじゃない!セールスマンやホストも経験した異色の経歴

今やマルチタレントとして不動の地位を築いているヒロミさんですが、芸能界に入る前には、意外な職業でトップクラスの実績を上げていた過去があります。

その経験が、後にタレントとして大成する礎となったことは間違いありません。

高校卒業後、ヒロミさんはおじが経営する日産自動車の販売会社に就職し、セールスマンとして社会人生活をスタートさせました。
持ち前のトークスキルと人懐っこいキャラクターを武器に、なんと入社1年目にして常にトップクラスの成績を収めていたといいます。この頃から、人を惹きつけるコミュニケーション能力はずば抜けていたようです。

その後、芸能界入りを目指しながら勤務したのが、新宿のホストクラブ(ショーパブ)でした。
ここでもヒロミさんの才能は開花します。営業中に披露する漫談が「面白い」と評判を呼び、お客様から指名されても接客につかないという独特のスタイルでありながら、見事にナンバーワンの座を獲得しました。そして、この場所での出会いが、後に「B21スペシャル」を結成するデビット伊東さん、ミスターちんさんとの運命的な引き合わせとなったのです。

お笑い芸人としてデビューする前から、その話術一つで道を切り拓いてきたことが伺える、非常に興味深い経歴です。

ヒロミさんの若い頃の主な経歴をまとめました。

時期 経歴 主なエピソード
高校時代 地元の暴走族「八王子スペクター」に所属 やんちゃな学生時代を送っていたと語られています。
高校卒業後 日産自動車のセールスマン 入社1年目にしてトップクラスの成績を収めました。
セールスマン退職後 新宿のホストクラブに勤務 持ち前のトーク力でNo.1ホストになりました。
1986年 お笑いトリオ「B21スペシャル」結成 芸能界デビューを果たし、瞬く間に人気芸人の仲間入りをしました。

実家は工務店!ヒロミさんの男らしいルーツとご家族・ご兄弟について

テレビ番組の企画で見せるプロ顔負けのDIY技術は、もはやヒロミさんの代名詞の一つです。その驚くべき腕前の原点は、工務店を営むご実家での幼少期の経験にありました。

ヒロミさんのご実家は、地元である東京都八王子市で「有限会社小園工務店」を営んでいます。ヒロミさんの本名が「小園 浩己(こぞの ひろみ)」さんであることからも、ご実家であることがわかります。
幼い頃から家の隣にある作業場が遊び場で、木を切ったり、大工であるお父様の後ろ姿を見て道具の使い方を自然と学んだりしていたそうです。現場に手伝いに駆り出されることもあったと、本人が語っています。

ご家族も、ヒロミさんの人柄を語る上で欠かせない存在です。

  • お父様:鹿児島県出身の九州男児。ヒロミさんと松本伊代さんの結婚披露宴では、手作りの「まな板」を引き出物として配ったという心温まるエピソードが残っています。息子が結婚する際に、父親が無職では格好がつかないという思いから、周囲に引退を勧められても仕事を続けたという、愛情深い一面も伝えられています。
  • お母様:ヒロミさんが18歳で大事故に遭った際、「あなたは長生きできないかもしれないから、好きな事をしなさい」と、息子の背中を押してくれたそうです。
  • お兄様:2歳年上の小園嘉時(よしと)さん。職業は大工で、ヒロミさんの実家を支えています。長男・凌央さんのYouTubeチャンネルに“棟梁”として登場し、孫のために犬小屋作りをサポートするなど、家族の仲の良さがうかがえます。

現在のDIYの達人としてのヒロミさんの姿は、幼い頃からものづくりの現場に触れ、職人である父や兄の背中を見て育った環境が大きく影響していると言えるでしょう。

気になる現在の活動と収入源は?多才なマルチタレントとしての一面

若い頃の破天荒なイメージから一転、現在は司会業やコメンテーターとして、またDIYの達人として確固たる地位を築いているヒロミさん。その活躍の場はテレビだけにとどまらず、実業家やYouTuberとしても成功を収めており、収入源は非常に多岐にわたっています。

ヒロミさんの収入の柱は、現在でもテレビ番組やCMへの出演が大きな割合を占めています。
『ヒューマングルメンタリー オモウマい店』や『坂上&指原のつぶれない店』といった人気番組でMCを務めるほか、数多くのCMにも出演しており、その安定した人気がうかがえます。

一方で、実業家としての顔も持っています。
加圧トレーニングジム「Body Conscious 51,5 HIROMI ART」の経営や、自身の趣味が高じて生まれたアパレルブランド「ハチオウジ工務店」のオンラインショップ運営など、タレント業以外でもその商才を発揮しています。


さらに、2019年に開設したYouTubeチャンネル「Hiromi factory チャンネル」は、DIY、車・バイク、アウトドアといった趣味全開の動画が人気を博し、多くのチャンネル登録者を抱える人気コンテンツとなっています。

かつて全盛期には「最高月収6000万円」に達したと自ら語ったこともあるヒロミさん。現在の年収について「2億円」と推測された際には「否定しねーぜ」とコメントするなど、今なおトップクラスの活躍を続けていることは間違いないでしょう。

活動分野 具体的な内容
タレント業 テレビ番組のMC・レギュラー出演、CM出演など
事業経営 トレーニングジム経営、アパレルブランド運営など
YouTube 「Hiromi factory チャンネル」の運営(広告収益、企業案件など)
その他 オンラインサロン運営、書籍執筆など

妻・松本伊代さんとの馴れ初め|トップアイドルとの出会いと若い頃

芸能界を代表するおしどり夫婦として知られるヒロミさんと松本伊代さんですが、二人の出会いと結婚に至るまでの道のりは、非常にドラマチックなものでした。
その始まりは、当時トップアイドルだった松本伊代さんからの積極的なアプローチだったと言われています。

二人が初めて出会ったのは、1989年3月25日に放送された人気深夜番組『オールナイトフジ』の300回記念スペシャルでのことでした。
番組で共演した際、松本伊代さんがヒロミさんを見つけ、「今度ゴルフ行きましょうよ」と声をかけ、連絡先を交換したのがきっかけです。

しかし、ヒロミさんはすぐには連絡をせず、伊代さんがテレビ局で会うたびに「全然電話してくれないんだからぁ」と伝える期間が続いたそうです。
その後、テレビ局主催のゴルフコンペで念願のゴルフが実現。ある時、ヒロミさんが車で家まで送る際に「今度おいしいメロンジュース飲みに来る?」と誘い、ヒロミさんの自宅で初デートとなったというエピソードが語られています。

交際から結婚への大きな転機となったのが、後述するヒロミさんの大火傷事故でした。
入院中のヒロミさんを松本伊代さんが献身的に看病し、「この人の面倒を一生みていこう」と心に決めたそうです。ヒロミさんも、その愛情に心を打たれ結婚を決意。1993年、二人は晴れて夫婦となりました。プロポーズの際に「万馬券が当たったから」と言って指輪を渡したという、ヒロミさんらしいユニークな逸話も残されています。

若い頃から変わらない?やんちゃなエピソードの数々

今では後輩から「兄貴」と慕われ、頼りがいのあるキャラクターで人気のヒロミさんですが、若い頃は誰もが認める「やんちゃ」な存在でした。
その大胆不敵なスタイルは、多くの伝説的なエピソードを生み出しています。

まず有名なのが、学生時代に地元の暴走族「八王子スペクター」に所属していたという過去です。ご自身もテレビ番組などで度々この話をしており、その当時のやんちゃぶりが現在のキャラクターのルーツの一つであることが伺えます。

芸能界に入ってからも、その物怖じしない姿勢は健在でした。

当時のお笑い界は上下関係が非常に厳しい時代でしたが、ヒロミさんは大御所芸能人に対してもタメ口やあだ名で接するスタイルを貫きました。横山やすしさんにコントの途中でステージに上がられた際にも、臆することなく「おじさん、ちょっとそっち座ってな」と返して逆に気に入られたというエピソードは、その度胸の大きさを物語っています。
また、堺正章さんとの「昔、俺が干した」というやり取りは、今やテレビ番組での定番の掛け合いとなっています。

その一方で、少し微笑ましいやんちゃなエピソードも。

大ファンだった松田聖子さんのコンサートで警備員のアルバイトをした際には、本来観客の方を向いて警備すべきところを、舞台上の松田さんに見とれてしまっていたと明かしています。こうした数々のエピソードが、ヒロミさんの人間的な魅力を形作っているのです。

人生を変えたヒロミさんの若い頃|二度の事故と家族の支え

  • 18歳での自動車事故が生死を分けた最初の転機
  • 番組企画中の大火傷事故|壮絶な体験の真相とは
  • 若い頃の写真で見る「やけどの跡」は顔にもあった?
  • 現在のお顔の状態と火傷の関係について
  • 大事故を乗り越える力となった妻・松本伊代さんの存在
  • 幾多の困難を乗り越え、再ブレイクを果たした現在の活躍

18歳での自動車事故が生死を分けた最初の転機

ヒロミさんの人生における最初の大きな転機は、18歳の時に経験した壮絶な自動車事故でした。
この九死に一生を得る体験が、彼の価値観を根底から変え、後の芸能界入りを決意させる直接的なきっかけとなりました。

事故が起きたのは、ヒロミさんが18歳の夏のことです。
友人2人を乗せて自動車を運転中に事故を起こし、内臓破裂(脾臓破裂)という命に関わる重傷を負いました。

その状態は極めて深刻で、医師からはご家族に「もう諦めてください」とまで告げられたほどでした。

しかし、脾臓を一つ摘出するという長時間にわたる難しい手術の末、奇跡的に一命を取り留めたのです。この時、意識のない中で自分の体を上から眺め、見舞いに来た友人たちの様子を見ていたという、不思議な体験をしたとも語っています。

生死の境をさまよったこの経験を通じ、「人間はいつ死ぬかわからない。生きているうちに好きなことをしよう」と強く決意。
お母様からも「あなたは長生きできないかもしれないから、好きな事をしなさい」と後押しされ、入院中に見ていたテレビ番組の世界、お笑いの道を志すことになりました。もしこの事故がなければ、そのまま会社員としての人生を歩んでいたかもしれず、まさに彼の運命を決定づけた出来事だったと言えます。

番組企画中の大火傷事故|壮絶な体験の真相とは

人気お笑いタレントとして不動の地位を築いていた26歳の時、ヒロミさんは再び命の危機に瀕する大事故に見舞われます。
テレビ番組の収録中に全身の4分の1にも及ぶ大火傷を負うという、極めて衝撃的な出来事でした。

この事故は、1991年に放送されていたフジテレビ系の深夜番組『1or8(ワンオアエイト)』の企画で起こりました。
「ヒロミがロケット花火をたくさん背負って宇宙へ行く」という企画で、1万本ものロケット花火を背負って点火するという、今では考えられないほど過激な挑戦でした。

耐熱性のレーシングスーツを着用するなど安全対策は講じられていたものの、収録当日は台風接近による強風が吹き荒れていました。
点火の瞬間、その強風にあおられた炎が一気にヒロミさんを包み込み、スーツ内部は1000度以上の高温に達したとされています。結果として、体の25%に「熱傷深度III度」という最も重度の火傷を負い、再び生死の境をさまようことになったのです。

集中治療室で約2ヶ月間過ごし、自身の皮膚を移植する大手術を受けるなど、治療は過酷を極めました。
壮絶な痛みとリハビリを乗り越え、無事に芸能界へ復帰を果たしましたが、この経験もまた、彼の人生観に深い影響を与えることになりました。

大火傷事故の概要
時期 1991年(当時26歳)
番組名 フジテレビ系『1or8(ワンオアエイト)』
企画内容 ロケット花火1万本を背負って宇宙へ行く
怪我の程度 体の25%に及ぶ熱傷深度III度の火傷
治療 約2ヶ月半の入院、皮膚移植手術など

若い頃の写真で見る「やけどの跡」は顔にもあった?

現在のヒロミさんを見て、そのお顔の肌の状態が若い頃の大火傷によるものではないかと考える声も一部で見られます。
しかし、事故の状況やこれまでの写真などを詳しく見ていくと、必ずしもそうとは言えないようです。

まず、1991年の大火傷事故では、火傷を負ったのは主に下半身を中心とした体の部位であり、顔面が中心ではなかったとされています。

実際に、入院中に撮影された映像を見ても、顔に火傷による大きな損傷は見受けられなかったという情報もあります。このことから、顔の肌の状態がこの事故の直接的な後遺症である可能性は低いと考えられます。

提供された資料にある若い頃の写真を時系列で見てみると、その変化がよくわかります。

B21スペシャルとしてデビューした20代の頃の写真は、肌の凹凸などはほとんど見られず、滑らかな印象です。しかし、30代に入ると、少しずつ頬のあたりに凹凸が見られるようになり、40代以降、それが徐々にはっきりとしてきます。

これらの経緯から、ヒロミさんのお顔の肌の状態は、大火傷事故によるものではなく、ニキビ跡など、長年にわたる肌質の変化や加齢といった要因が関係していると考えるのが自然でしょう。

いずれにせよ、二度の大事故を乗り越えてきた力強さが、現在のヒロミさんの魅力の一つになっていることは間違いありません。

現在のお顔の状態と火傷の関係について

ヒロミさんのお顔の肌の状態について、若い頃の大火傷事故との関連性を気にされる方がいらっしゃるようです。
しかし、様々な情報を総合すると、その可能性は低いと考えられます。

ヒロミさんが負った大火傷は、体の25%に及ぶ深刻なものでしたが、主に下半身が中心であったことが伝えられています。
入院中の映像記録などからも、顔に直接的な重度の火傷を負ったわけではないことが伺えます。

現在のお顔の肌に見られる凹凸は、俗に「クレーター肌」と呼ばれる状態に似ています。

一般的にこのような肌の状態は、若い頃のニキビ跡や、年齢を重ねることによる肌質の変化、たるみなどが原因で現れることがあります。提供された情報の中でも、ヒロミさんの若い頃の写真を時系列で追っていくと、20代の頃は滑らかだった肌が、30代、40代と年齢を重ねるにつれて徐々に変化している様子が確認できます。

これらのことから、現在のお顔の状態は、大事故の後遺症というよりも、長年の芸能活動やライフスタイルの中で生じた自然な変化と考えるのが妥当でしょう。

大事故を乗り越える力となった妻・松本伊代さんの存在

ヒロミさんが26歳で大火傷という絶望的な状況に陥った際、その復活を支えたのは、当時交際していた松本伊代さんの献身的な愛情でした。

この出来事なくして、二人の固い絆は語れません。

事故当時、二人はまだ結婚前の関係でした。

しかし、ヒロミさんが生死の境をさまよっていると知った伊代さんは、トップアイドルとして多忙を極める中、何度も病院へお見舞いに駆けつけました。当初ヒロミさんは、友人の木梨憲武さんが伊代さんを連れてきてくれたのだと思っていたそうですが、後になって伊代さん自身が自力で病院を探し当てて来てくれたことを知り、深く感動したといいます。

伊代さんは、強い痛み止めで意識が朦朧としているヒロミさんに、彼が好きだった缶詰のみかんを食べさせてあげるなど、優しく寄り添い続けました。

そして、後遺症が残るかもしれないヒロミさんの姿を見て、「この人の面倒は私が一生みていこう」と結婚を固く決意したと語っています。この伊代さんの無償の愛があったからこそ、ヒロミさんはつらいリハビリを乗り越え、再び立ち上がることができたのです。

幾多の困難を乗り越え、再ブレイクを果たした現在の活躍

二度の命に関わる大事故を乗り越えたヒロミさんですが、その後の芸能人生も決して平坦なものではありませんでした。
約10年間にわたる活動休止期間を経て、見事に返り咲いた現在の姿は、まさに不屈の精神の象徴と言えます。

2004年頃、人気絶頂だったヒロミさんは、テレビの表舞台から姿を消します。

その理由については、親友の死によるショックや、当時のご自身の振る舞いが原因であったことなど、様々な要因が語られています。この間、ヒロミさんはタレント業から離れ、加圧トレーニングジムの経営など実業家として手腕を発揮していました。

この休止期間が、ヒロミさんにとって大きな転機となりました。

経営者として様々な経験を積む中で、人間的にも丸くなったとされ、その後の復帰へと繋がっていきます。復帰を後押ししたのは、大先輩である堺正章さんの「逃げちゃダメだ」という言葉や、親交の深い中居正広さんからの「テレビに出たらどうですか?」という勧めだったそうです。

2014年頃から本格的にテレビ復帰を果たすと、若い頃の鋭さに加え、優しさや懐の深さが備わった新しい魅力で、再びお茶の間の人気者となりました。

今ではMCやコメンテーターとして確固たる地位を築き、DIYの腕前を披露する「八王子リフォーム」は番組の看板企画になるなど、唯一無二の存在として輝き続けています。若い頃の壮絶な経験と困難を乗り越えたからこそ、現在の深みのあるヒロミさんの姿があるのです。

この記事でわかる!ヒロミさんの若い頃のまとめ

  • 学生時代は地元の暴走族「八王子スペクター」の一員でした。
  • 18歳の時に内臓破裂という大事故に遭い、芸能界入りを決意しました。
  • 芸能界に入る前、セールスマンとして入社1年目でトップクラスの成績を収めました。
  • 新宿のホストクラブ(ショーパブ)でもNo.1になった異色の経歴を持っています。
  • 1986年に「B21スペシャル」を結成し、お笑いトリオのリーダーとしてデビューしました。
  • 当時のお笑い芸人には珍しいスタイリッシュなルックスでも注目を集めました。
  • 先輩芸人にも臆さない強気なツッコミを持ち味として人気を博しました。
  • 実家は八王子で工務店を営んでおり、父親と兄は職人(大工)です。
  • プロ顔負けのDIY技術は、幼少期からものづくりが身近な環境で育ったことに由来します。
  • 妻・松本伊代さんとの出会いは、彼女からの積極的なアプローチがきっかけでした。
  • 26歳の時、テレビ番組の企画でロケット花火により全身の4分の1に大火傷を負いました。
  • 命にも関わる大火傷は主に下半身で、長期入院と皮膚移植手術を経験しました。
  • 現在の顔の肌の状態と、この大火傷事故との直接的な関連性は低いと考えられています。
  • 大事故を乗り越えられたのは、松本伊代さんの献身的な看病と愛情があったからでした。
  • 2004年頃から約10年間テレビ出演を休止し、実業家としてジム経営などで成功を収めました。
  • 堺正章さんらの後押しもあり、2014年頃から本格的にテレビ復帰を果たし再ブレイクしました。
  • 現在はタレント業に加え、YouTubeや事業経営など多様な収入源で活躍しています。

\ 最新情報をチェック /

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

目次